愛媛県四国中央市上柏町 銅山川疏水 調圧水槽
(2026/09/01 更新)
愛媛県四国中央市周辺で語られてきた銅山川分水は、農業用水の確保を出発点に、工業用水、都市用水、発電用水へと役割を広げてきました。入力資料では、その歩みが「えひめの記憶」にまとまっており、宇摩平野の水事情と地域産業の成長を結ぶ、長い水の歴史としてたどることができます。
資料によれば、宇摩の河川は流域が短く勾配も急で、雨が降ればすぐに増水し、晴れれば断水しやすい性質がありました。夏の干天には河底に点滴を残すほどだったとされ、農民たちは干害への不安を抱えながら農業を続けていたと記されています。
そのなかで、南にそびえる法皇山脈の向こうにある銅山川へ水源を求め、山嶺を越えて導水する構想が生まれました。水田の用水を補い、干害を減らしたいという切実な願いが、銅山川分水の原点でした。
銅山川疎水事業は、すぐに実現したわけではありません。資料では、安政年間に庄屋たちが工事のもくろみ書を提出したこと、慶応初年には代官が藩主に進言したことが記されていますが、廃藩置県などの社会変動で計画は途切れました。
その後も明治期を通じて地元有志や商社が事業化を試みたものの、資金難で前に進みにくい時期が続きました。大正期に入ると、紀伊為一郎らが中心となって再び具体化が進み、灌漑区域の拡大や県への出願、さらには徳島県との協議が重ねられます。とはいえ、下流である徳島県側の反対もあり、交渉は長期化しました。
この記録からは、単に工事を進めるだけでなく、利水をめぐる県境をまたいだ調整が、いかに大きな課題だったかが伝わってきます。
大正末から昭和にかけては、事業が県営へ移され、より大きな公共事業として進められました。資料では、昭和11年に分水協定案へ調印し認可に至ったこと、昭和13年には法皇山脈を貫く約2900メートルの隧道工事に着手したことが述べられています。
ただし、工事は順調ではありませんでした。断層や湧水、戦争の影響で停滞し、長い中断を挟みます。それでも、昭和24年に坑内での作業が進み、昭和25年8月には内部仕上げが終わり通水式が行われました。安政以来、実に96年ぶりに峰の向こうの水が来たとされ、宇摩郡民の悲願が一つの形になりました。
銅山川分水は、その後さらに多目的化していきます。昭和28年には柳瀬ダムが完成し、銅山川の水は金砂湖としてせき止められ、法皇山脈をくりぬいた第二隧道を通って調圧水槽へ送られました。ここからは農業用水だけでなく、発電や工業用水、上水道にも利用されるようになります。
資料には、新宮ダム、富郷ダム、別子ダムといった施設も整理されており、銅山川水系が地域の水資源として重層的に使われていることがわかります。とくに伊予三島・川之江地区では、紙・パルプ製造を支える工業用水の供給が重要な位置を占め、銅山川工業用水道事業が整えられていきました。
昭和50年代には、両市の製紙工場への給水が始まり、配水管路も整備されました。資料の記述からは、農業のために始まった水の事業が、時代とともに地域産業の基盤へと広がっていった様子が読み取れます。
銅山川流域の水源施設は、灌漑、発電、工業用水のそれぞれで役割を担ってきました。柳瀬ダムや新宮ダムの水は、発電に使われたのち、工業用水や上水道へも回されます。富郷ダムは、治水と都市用水確保を目的とする多目的ダムとして位置づけられ、地域の将来に備える施設として記されています。
一方で、ダム建設によって立ち退きや集落の変化が生じたこと、学校の歴史が閉じられたことも資料には見えます。水を確保する事業は、豊かな供給だけでなく、土地の姿や暮らしのかたちを変えてきたことがうかがえます。
銅山川分水の歴史は、単なる土木事業の記録ではありません。干ばつに苦しむ農地を守るための構想から始まり、県境を越えた交渉、長い隧道工事、ダム建設、そして工業都市を支える水道へとつながっていきました。
「えひめの記憶」に残るこの記録は、四国中央の地域史を考えるうえで、水がどのように暮らしと産業を結んできたかを静かに伝えています。現在の流れの背景に、幾世代にもわたる努力が積み重なっていることを感じさせる資料です。