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明治用水の歴史をたどる 安城の農業を支えた水路の歩み

愛知県安城市三河安城南町1丁目 明治用水

(2026/09/29 更新)

明治用水とは

明治用水は、愛知県安城市を中心とする地域の農業を支えてきた用水です。東海農政局の紹介によると、開発以前の安城市付近は「安城が原」「五ヶ野が原」と呼ばれるやせ地で、水に恵まれない土地だったとされています。小河川沿いに小規模な水田がある一方で、農業は水不足に悩まされ、ため池に頼る耕地も多かったようです。

現在は、水土里ネット明治用水が運営するウェブサイトでも、用水の管理や通水、断水情報、漏水情報などが案内されており、地域の水利用を日々支える存在として位置づけられています。

開削までの道のり

明治用水の開削は、江戸時代末期にさかのぼります。和泉村の豪農・都築弥厚が、矢作川上流の越戸村から水を引く計画を立て、30キロメートルにも及ぶ水路の開削を構想しました。測量には高棚村の数学者・石川喜平が協力しましたが、当時は水害への不安や入会地の減少を心配する農民たちの反対もあり、作業は容易ではなかったとされています。

その後、長い時間をかけて測量図が整えられ、幕府から一部の開発許可が下りたものの、都築弥厚は志半ばで病没しました。明治に入ってからは、石井新田の岡本兵松が計画を引き継ぎ、さらに伊豫田与八郎の計画と一本化されることで、ようやく実現に近づいていきました。

明治13年の完成とその後

東海農政局の説明では、明治5年に愛知県が成立し、さまざまな事情を経て用水計画が認められ、明治13年についに明治用水が完成したとされています。完成後、農業は大きく変わり、約2,000ヘクタールだった水田面積は明治40年には8,000ヘクタールを超えたと紹介されています。

台地という地形のため、秋に水門が閉じられると水田は干し上がり、畑として使われるようになりました。冬には麦や野菜、菜種、れんげなどが栽培され、土地を重ねて使う農業が進んだとされています。米作だけでなく養鶏、養蚕、果樹なども広がり、この地域は「日本デンマーク」と呼ばれるようになりました。

人造石と農家の協力

明治用水の特徴として、東海農政局は「人造石」と呼ばれる人工の石を用いた堰堤の建設や、官民連携、農家による自発的な水路維持管理を挙げています。単に水を引くだけではなく、地域の人々が長く水路を守り続けてきたことが、用水の歴史の中で重要な位置を占めていることがわかります。

こうした点が評価され、明治用水は平成28年11月8日、国際かんがい排水委員会(ICID)で世界かんがい施設遺産に登録されました。農業の発展だけでなく、水管理の仕組みそのものが歴史的価値を持つ事例として紹介されています。

現在の明治用水を支える取り組み

水土里ネット明治用水のサイトでは、新着情報として断水や漏水に関する案内、通水日程、ダム流況などが掲載されています。夏期通水期の矢作ダムや羽布ダムの情報、通水や断水に関するPDF資料もあり、現在もきめ細かな水管理が続けられていることがうかがえます。

また、「水のかんきょう学習館」の案内や、地域の子どもたちが農業体験・環境学習を行う水田ビオトープの紹介も見られます。明治用水は歴史資料としてだけでなく、いまの地域学習や農業体験ともつながる存在として受け継がれています。

まとめ

明治用水の歴史は、水不足の土地に水を通そうとした人々の試みと、地域全体で水路を守り続けてきた積み重ねの記録です。安城の大地に広がった農業の変化や、「日本デンマーク」と呼ばれるまでの歩みには、用水が地域の暮らしを形づくってきたことがよく表れています。

現在も明治用水は、通水や断水の調整、漏水対応、学習活動などを通じて、地域の水と農業に関わり続けています。歴史をたどることで、いま流れている水の背景にある長い時間が見えてきます。