滋賀県東近江市青山町 愛知川頭首工
(2026/09/03 更新)
滋賀県の愛知川流域は、低地の沖積平野と、上流側に広がる洪積台地・段丘とで、水の得やすさが大きく異なる地域です。低地では早くから水田が開かれ、いわゆる10ヶ井堰と呼ばれる井堰群が用いられてきましたが、愛知川の洪水で流されることも多く、安定した取水は容易ではありませんでした。
一方、台地上では水利が乏しく、水田化は江戸時代以降に進んだとされます。近年まで大豆や茶との輪作も行われ、ため池が各所に築かれてきました。愛知川流域の稲作は、こうした自然条件の上に成り立ってきた水利の歴史そのものでもあります。
入力資料では、稲作社会は「水社会」と表現されています。水田は自然流下型の灌漑に支えられるため、上流と下流、古く開かれた田と新しく開かれた田のあいだで、水をめぐる関係が重なり合います。ここでは水の確保が、単なる技術の問題にとどまらず、地域の人間関係や約束事を形づくってきました。
愛知川流域でも、こうした水利慣行が長く地域の基盤になっていたことがうかがえます。水利環境の改善は、用水の確保だけでなく、土地利用や労働のあり方、さらには地域社会の関係にも影響してきたとされています。
愛知川は、洪水時には水田へ被害を及ぼし、渇水時には伏流して河道から姿を消すなど、農業用水として扱いにくい性格をもっていました。加えて伏流水が各所で湧き出し、冷水障害や過湿を招くこともあったため、干ばつのたびに井戸やため池が整えられ、井戸の数は2,600か所を超えるまでになったと記されています。
こうした不安定な水利事情から脱するため、昭和27年に国営事業が始まり、ダムの位置や工法の再検討、水没集落の移転など、さまざまな課題を経て永源寺ダムが整えられていきました。湖底には佐目、萱尾、九居瀬、相谷の各集落があり、213戸が移転の対象となりました。長く住み慣れた土地を離れる決断は容易ではなかったはずですが、地域の理解と協力のもとで事業は進められたようです。
永源寺ダムは昭和47年に完成し、その後、愛知川の10ヶ井堰から取水していた用水は、ダムから統一して送水される仕組みに変わりました。愛知第一・第二・蒲生・神崎の4幹線水路を通じて末端の水田まで水が届けられ、ほ場整備も進みました。
資料では、こうした水利施設の整備によって慢性的な用水不足が和らぎ、水稲や野菜の営農活動に一定の安定がもたらされたとまとめられています。また、用水の安定供給は、ほ場整備や担い手育成、集落営農の推進にもつながったとされています。
永源寺ダムの補助水源として登場したのが愛知川頭首工です。国営事業の計画変更にあわせて位置づけられ、県営支線水路や集水渠、揚水機、ため池などと組み合わされて、地域の水を補う仕組みが整えられました。
全受益地の年間補給量のうち、永源寺ダムに次ぐ重要な供給源として位置づけられており、永源寺ダム下流流域の表流水を取水して、左右両岸の県営連絡水路から幹線へ導水する構成になっています。愛知川の流れを活かしながら、ダムへの依存を一定程度抑える考え方が見て取れます。
愛知川左岸の市原地区では、ほ場整備と用水路整備を土台に、広域営農の取り組みが進められてきました。昭和54年に土地改良区が設立され、その後、営農部会が布引営農組合として新たな体制を整えています。
資料には、「市原米」や「布引メロン」といった産品づくり、さらに大型農業機械や無人ヘリを使った営農の様子が記されています。兼業化や後継者不足という課題がある一方で、若い世代がオペレーション業務を担うようになっている点も紹介されています。水の安定供給が、単に水田を支えるだけでなく、営農の組み立て方そのものを変えてきたことがうかがえます。
愛知川右岸の東円堂地区では、明治時代には「はねつるべ」で地下水をくみ上げるのが常だったとされます。1日に1cmほど水が減るだけでも、1畝あたり50〜200回の水汲みが必要だったという記録があり、当時の労力の大きさが伝わってきます。
また、内野地区では、愛知川の水を使う最後の集落としての位置づけがあり、かつては湧水が頼りでした。ダム用水と舟岡集水渠の施工によって用水が確保され、ほ場整備が進んだことで、地域の農業環境も変わっていきました。先人が積み重ねてきた水確保の工夫が、今の農地や集落の姿につながっています。
愛知川流域の水利史は、ダムや頭首工のような施設だけでなく、井堰、ため池、井戸、集水渠、ほ場整備といった積み重ねの記録でもあります。地域が水とどう向き合ってきたかをたどると、農地の風景とともに、生活の記憶もまた見えてきます。