山形県西置賜郡小国町大字黒沢 越後米沢街道・黒沢峠
(2026/07/12 更新)
越後米沢街道は、山形県置賜地域と新潟県下越地域を結ぶおよそ70kmの街道です。関川村の案内では、十三の峠が連なることから「十三峠」と呼ばれています。起点は米沢城下の札ノ辻とされ、関川村では鷹の巣峠、榎峠、大里峠をはじめ、黒沢峠、桜峠、宇津峠、諏訪峠などが続きます。
この道は、単なる山道ではなく、米沢と越後を結ぶ物資や人の往来を支えた道でした。塩や鉄、魚、お茶、青苧、煙草、漆、蝋燭などが行き来したとされ、暮らしと産業を支える動脈でもあったことがうかがえます。現在は通行困難な区間もありますが、古道の面影が残る場所では、かつての道の役割を静かに感じることができます。
関川村側の十三峠は、国道113号やJR米坂線と並行しながら山裾に点在しています。区間によっては舗装道路や林道と重なり、また別の区間では杉林の中に古道らしい道型が残っています。看板や標柱を目印に分岐していく道もあり、道の記憶が現在の生活道路の中に折り重なっているような印象があります。
鷹の巣峠は、下川口集落の外れにある標識から登り始める区間で、切通しが往時の姿を残していると案内されています。一方で、令和4年8月豪雨の被害により通行困難となっている峠もあり、十三峠は今も一様な観光路ではなく、自然と災害の影響を受けながら続く山道として存在しています。
日本山岳会の紹介では、黒沢峠の敷石道がとくに知られています。おまつり広場から続く石畳は、苔をまとった敷石がゆるやかに並び、ブナと杉の林の中を上っていきます。石の感触が続く道筋は、山道でありながらも整えられた往時の街道らしさを伝えています。
萱野峠では敷石が部分的に見られ、玉川大橋の橋脚跡が伝えられています。朴ノ木峠は送電線に沿って登る区間があり、木々の向こうに飯豊連峰がのぞく場面もあります。高鼻峠や才ノ頭峠のように、現在は道の性格が変わった区間もあり、同じ「峠」という名でも、場所ごとに表情が異なります。
また、白い森おぐに湖の中を通る不動出生橋の区間は、水位が低い時期にしか歩けないとされ、季節によって道の表情が大きく変わることもこの街道の特徴です。
十三峠の始まりは、1521年に伊達稙宗によって大里峠が開かれたことにさかのぼるとされています。その後、江戸時代にかけて順次整備されました。大里峠は県境の峠であり、十三峠の中でも重要な節目として扱われています。黒沢峠や大里峠は「歴史の道百選」に選ばれ、越後米沢街道・十三峠は日本風景街道にも登録されています。
街道は輸送路としてだけでなく、宿駅や番所、馬宿、茶屋のある生活の道でもありました。沼、玉川、白子沢、小国などには、旅人や荷運びの人々が行き交った痕跡が見られます。明治以降は国道113号の整備や新道の開通によって役割を変えましたが、古道の一部にはその前の時代の空気が残っています。
関川村の十三峠を語るうえで、イザベラ・バードの足跡も欠かせません。旅行記『日本奥地紀行』の著者であるバードは、明治11年にこの街道を歩き、沼に宿泊しました。十三峠の山中では、険しい山岳地帯に難儀したことや、山村の景観、人々の暮らしが記録されています。
彼女が米沢平野を「東洋のアルカディア」と称したことはよく知られており、峠道を越えた先に広がる景色の印象を今に伝えています。関川村では、バードの歩いた道をたどることで、街道が単なる通路ではなく、旅人の記憶を残す場所でもあったことが見えてきます。
大里峠には、関川村に伝わる大蛇伝説があります。蛇喰の炭焼き夫婦と娘の物語、盲目の法師蔵一の伝言、鉄を集めて大蛇を退治するくだりなど、村の危機と救済を描く話として語り継がれてきました。下関の大蔵神社には、蔵一が遺したとされる琵琶と杖が祀られていると案内されています。
街道の歴史、災害の記憶、伝説の物語がひとつの地域の中で重なり合っている点も、越後米沢街道十三峠の特徴です。峠を越える道は、物流や軍事だけでなく、人々が語り継いだ物語の通り道でもありました。
関川村では、渡邉邸、東桂苑、せきかわ歴史とみちの館、大蔵神社などが、十三峠の背景を知る手がかりになります。とくにせきかわ歴史とみちの館は、渡邉邸をイメージして建てられた施設で、村の歴史資料や旧米沢街道の街並み模型が展示されていると案内されています。
古道を歩くことが難しい区間でも、こうした施設や案内を通じて、街道が担ってきた役割や地域の歴史をたどることができます。山道の記憶と、村の暮らしの記録が近くにあるのが、関川村の米沢街道らしいところです。