京都府宮津市字小田 普甲峠
(2026/09/28 更新)
京都府宮津市と福知山市を結ぶ山越えの道に、普甲峠があります。標高は402mで、宮津から福知山へ向かう最短ルートの峠越えとして知られてきました。現在は「今普甲道」と「元普甲道」という二つの古道の名で語られることが多く、江戸時代の道筋だけでなく、さらに古い時代の往来の記憶も重なる場所です。
普甲峠には、かつて関所が置かれていたとされます。いま目の前にあるのは静かな山道ですが、かつては人や物が行き交い、峠そのものが交通の要所でした。宮津市や福知山市の案内板、地元の方々が設置した道標などもあり、歴史の道を歩くための環境が少しずつ整えられています。
今普甲道は、江戸時代に宮津藩が開設した道で、宮津街道とも呼ばれます。山越えの厳しさを避け、福知山へより短く、より使いやすく出るために整えられた道とされています。一方の元普甲道は、古代から丹後の政治的中心地だった府中から都へ向かう道として伝えられ、平安時代にはすでに存在していたとみられています。
この道の名は、平安初期に峠の中腹にあった普甲寺に由来するともいわれています。古道の背景には、単なる山道ではなく、寺院や信仰、政治、交通が重なった長い時間があります。西国三十三所の成相寺へ向かう巡礼路としても使われ、歩く目的は時代によって変わりながら、道そのものは残されてきました。
古道の一部には、当時の石畳が今も残っています。大江山は蛇紋岩の山で、石畳もその石を用いているとされています。細く、ひとりがようやく通れるほどの山道に石が敷かれ、足もとは決して平らではありません。雨の日は滑りやすく、歩くには慎重さが必要です。
馬や牛は石畳の脇の側道を通ったとされ、荷を運ぶ道としての痕跡も感じられます。古道ウォークでは、石畳の急な坂や、木々の間から宮津湾や宮津の町並みがのぞく場面もあり、山の道でありながら海やまちの気配が近いことがわかります。
道中には、一杯水茶屋跡や茶屋ヶ成といった、休憩の場として使われた場所もあります。一杯水茶屋跡では、かつて茶屋があった記憶が語られ、今も古道の途中の節目として歩く人を受け止めています。
茶屋ヶ成には、令和2年に宮津高校建築科の生徒が作った東屋があり、弁当を食べたり休んだりできる場所になっています。ここは宮津市内と天橋立が一緒に見える唯一のポイントとされ、山越えの途中で景色を確かめる場でもあります。昔の旅人も、ここでひと息ついてから宮津へ入り、あるいは京へ向かったのかもしれません。
普甲峠の周辺には、かつて大江山スキー場がありました。今はレジャー施設はなくなり、ソーラーパネルが設置されているとされています。にぎやかなスキーの季節を知る人にとっては記憶の場所であり、いま訪れると、以前とは違う静けさが広がっています。
一方で、この場所は星空がよく見えるともいわれています。人工の明かりが少ないぶん、夜には空の広がりが印象に残る峠でもあります。昼は古道の入口として、夜は空を仰ぐ場所として、別の表情を見せるのが普甲峠の現在です。
今普甲道も元普甲道も、現在はハイキングコースとして歩きやすく整えられています。普甲峠までは車で来ることもでき、ここを起点に大江山連峰の縦走へ向かったり、赤岩山から赤石ヶ岳へ続く「赤赤トレイル」をたどったりすることができます。また、杉山から宇野ヶ岳を経て赤岩山へ向かうコースや、古代杉が林立する杉山林道の散策など、山の中に複数の歩き方が用意されています。
古道の保全活動も続けられており、雑木や雑草で通れなくなっていた区間を、石畳の修理などで少しずつよみがえらせてきた経緯があります。歩く人だけでなく、道を守る人がいることも、この峠の今の姿を支えています。
普甲峠には、昔からの道がいくつもあったとも伝えられます。そのひとつに「嫁入り道」があり、「普甲」という音が不幸につながるとして、花嫁はこの道を避けたという話も残ります。地名の響きや道の選び方にまで、人々の暮らしや感覚が反映されていたことがうかがえます。
現在の普甲峠は、目立つ施設が並ぶ場所ではありませんが、古道、石畳、休憩の場、眺望、そして歴史の記憶が重なっています。宮津から福知山へ抜ける山道として、また古代から江戸時代までの往来をたどる場所として、静かに歩かれている峠です。